「行動量は情報量に比例する」と堀江さんは言っている(令和元年10月13日)

最近、もっと動いてみようと思っているみっちーです。

 

というのも、毎日同じものを食べ、毎日同じ場所に行き、毎日同じ仕事をし、毎日同じことをしていると実感しているから。

 

私は、なんとなく生活に変化がないなぁと思う毎日を送っている。

 

行動力がないのだろうか?

 

毎日同じことをしているということは、そういうことなのかもしれない。

 

もっと行動しなきゃ・・・

 

そんなことを思っていた矢先、堀江貴文さんのことばが目に飛び込んできた。

よく「行動が大事だってのはわかっているんですが、私、行動力がなくて・・・」などと相談してくる人がいる。

まず断っておくが、ぼくは実際のところ、「行動力」などというものは存在しないと思っている。

 

ドキッ・・・

 

行動力などというものはないのか・・・!?

 

でも、どういうこと?

 

行動力などというものは、見ることも触れることもできない。単なる空想の産物である。存在するのは「個々の行動」だけだ。そして、たくさんの行動を起こしている人を見て、ぼくたちは「あの人は行動力があるね」などという言い方をする。

 と堀江さんは続ける。

 

たしかに、「行動」するのにメーターがあるわけでもないし、「行動力」には「km」とか「v」のような単位が存在しない。

 

単に、行動している人を見て「行動力がある」と言っているにすぎない。

 

「行動力」というパワーの源が体内に存在しているわけではないのだ。

 

つまり私が「行動力がないなぁ」と自分で思っているその「行動力」というのは、勝手に私の中でつくりあげてた妄想にすぎないわけだ。

 

別に私に行動力がないわけでなく、すぐに動かないだけだ。力の有無ではない。

 

では、すぐに動ける人とそうでない人の差はなにか。それを堀江さんは「情報量」の差だという。

行動力などという得体の知れないものが、フットワークの良し悪しを決めているわけではない。その人がどれだけの情報を持っているか、何をどれくらい知っているかによって、人間の行動量は規定されているのだ。だから、「動き続けられる人」になりたければ、情報量を増やしさえすればいい。

 

情報を持っていなければ動く範囲は限られいる。何も知らなければ、いつもと同じことしかできない。

 

おいしいパン屋さんを知らなければ、おいしいパン屋さんに行くことはできないし、どこかでセールをやっていることを知らなければ、そこで買い物をすることができない。

 

ラグビーを知らなければ最近のワールドカップでの日本の活躍を見ることもないし、台風の情報を知らなければ避難することもできない。

 

人間の行動は確かに情報量に規定されているのだ。

 

この視点は、私にはなかった。情報を得るということは単に教養を身につけるためにすることではない。

 

情報を得るということはすなわち行動するということに直結するのだ。

 

堀江さんがよく「情報のシャワーを浴びる」と言っているが、それはこんなことにつながっているのか!

 

全く気づいていなかった。

 

ということは、今まで私はしきりに「教養を身につけたい」と思って情報を摂取していたが、もっと「行動する」ために情報を摂取していくべきだ。

 

そうすればただの頭でっかちにならずにすむ。

 

あらためて、行動量を増やすために情報量を増やしていこうと思った。

 

ちなみに、今回引用した堀江さんのことばは今読んでいる下記の本からである。

時間革命 1秒もムダに生きるな

時間革命 1秒もムダに生きるな

 

 

他にも有益なことがたくさん書いてあるので、ぜひ参考にしていきたい。