こんばんは!
お仕事がんばってきました。
今日のブログは、ピンクレディーのミーちゃんについてです。
よろしくお願いします。
婦人公論に目がいった
いつものように、雑誌の表紙を見ていたら「婦人公論」という雑誌に目が止まった。
ご存知のとおり、私は婦人ではありません。
婦人とは成人した女性のことでです。
でも、私は男性。しかも自称アラフィフ。
婦人とは程遠い存在である。
そんな私が、なぜ「婦人公論」に目がいったか。
それはこの特集に惹かれたからだ。
(「婦人公論」の表紙より)
内容が「今からでも変われる! お金に困らない生き方」。
こんなこと書かれたら目がいくでしょ?
それで、今日はこの雑誌をせっせと読んでいたのでした。
ピンク・レディーのミーちゃんが気になった
だが、読んでみて実際気になったのは、ピンク・レディーのミーちゃんの話です。
ピンク・レディーといえば、「UFO」や「サウスポー」など数々のスーパーヒットを生み出した二人組のアイドルです。
実際、私も子どもの頃に、ハマりました。
その二人組のうちの1人、ミーちゃん。
実は、ピンク・レディーの解散後、とても苦労していたようです。
解散は1981年。
彼女が23歳のときだそうです。
23歳といえば、ふつうだったら大学を卒業して、社会人1年目。
これから初めて仕事をする年齢です。
ところが、ミーちゃんはそんな年齢で、仕事に一区切りしたわけです。
その後、彼女は29歳で事務所を設立。
経営は仲間の1人に任せていたそうです。
ところが、33歳のときに3億円近くの負債があることが発覚。
一気に窮地に陥ります。
でも彼女は、できるだけ自分の力でやってみようと覚悟を決めました。
だが、借金の返済をするのに、利息だけで毎月120万円。
事務所を回すためのコストを含めると600万円を稼がなくてはならなかったそうです。
月に600万円稼ぐってどれだけ大変なんでしょうね。
私には想像できません。
でも、がんばって約3年で通常運転で資金が回せるようになったそうです。
20歳の頃は歌って踊ることができるアイドルにすぎなかったのに、すごくがんばったのだと思います。
それは試練だった
ミーちゃんはそのことを振り返って、こう言っています。
やればできるものですね。そればかりか、なかなか刺激的で、ワクワクするような大冒険だったなんて思っている自分がいます。
知らず知らずのうちに私は強くなっていたのです。
あれは自分の足で歩くために与えられた試練という名のチャンスだったと確信しています。
(「婦人公論」より引用)
ピンチはチャンスとよくいいます。
だが、3億円もの負債をよく乗り切ったものだと思います。
やはり、あんなピンチを「ワクワク」したり「大冒険」だと考えたりするメンタルがあったからこそなんでしょうね。
そして、試練を乗り越えようとして、とにかくがむしゃらに行動したことで、強いミーちゃんに変わったのだと思います。
私の記憶の中のミーちゃんは、華やかなアイドルでした。
ところが、その後のミーちゃんは自分の力で困難を乗り越える人間に生まれ変わっていました。
私は、今のところこれと言った試練はないのですが、もし何か壁にぶち当たったら、ミーちゃんを思い出して、乗り越えていこうと思っています。
ということで・・・
今日は、かつてのスーパーアイドルが、その後どうなったのかを見てみました。
私も、日頃から強い人間になりたいと思っています。
ミーちゃんを見習います。
では、また明日!