ローマ教皇のメッセージを見て思ったこと(令和元年11月25日)

平和を愛するみっちーです。

 

最近のニュースといえば、ローマ教皇が広島と長崎を訪れたことだ。教皇としては38年ぶりということで、感慨深いものがある。

 

言うまでもなく、広島と長崎は原爆が落とされたところである。原爆の悲惨さはどの国よりもわかっているはずだ。

 

ところがどうだろう。

 

私は平和についてふだん考えたりはしない。平和の尊さを考えたり、平和であることに感謝をしたり、今後も平和な世の中が続くように願ったりしない。

 

いや、平和であってほしいとか、平和でよかったとか、そんなことを思ったことはある。しかし、あらためて祈ったり、願ったり、深く考えたりしない。

 

おそらく私だけではないはずだ。

 

私のまわりで、平和について話をしたりする人はいないし、平和な世の中であリ続けるように祈っているいる人の姿を見ることはない。

 

おそらく日本人の中でもそういう人は少数派であろう。

 

たぶん、ふだんから祈るという習慣がないことも関係しているだろう。

 

日本人といえばやっぱり神社である。神社にお参りするというのが日本人の姿なんだろうが、大多数の日本人が初詣に行くくらいじゃないかな。

 

本来、日本人は自然を信仰の対象としていた。大自然に感謝するのが日本人のスタイルのはずだった。しかしそういうのは今は薄れている。

 

現在、日本人が祈ることといえば、商売繁盛とか縁結びとか、自分のことばかりなのかもしれない。

(自分がそうだからって他人がそうとは限らないが・・・)

 

話がそれてしまったが、もっと日本人は平和について考えて、平和な世の中を願うべきなんじゃないかなと思っている。

 

少なくとも、私はこれから平和を願い、平和について考えたい。

 

ところで、ローマ教皇のメッセージは心に響いた。

 

人の心にあるもっとも深い望みの一つは、平和と安定への望みです。核兵器大量破壊兵器を所有することは、この望みへの最良のこたえではありません。

今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは途方もないテロ行為です。

核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんにお願いします。核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。

確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。

神に向かい、すべての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、心から声を合わせて叫びましょう。戦争はもういらない! 兵器の轟音はもういらない! こんな苦しみはもういらない! と。

 

こういうことは、原爆を投下された国、そしてその国民が発信するべきだ。

 

それなのに、すっかり原爆が投下された時代のことを忘れ、平和であることが永遠に続くと勘違いしてしまっている。

 

平和は努力しないと続かない。平和はそうであることを願い続けないと終わる。平和であることの意味を考え続けなければ、平和などどうでもよくなってしまう。

 

だから、これを機に、もっと平和について考えなければならないと思う。

 

今回のローマ教皇のことばは、私の心にかなり響いた。私個人はもっと考えていこうと思う。