以前、こんなブログを書いたことがあります。
「恋」と「愛」のちがいについてがテーマでした。
ところで、「恋」と「愛」のちがいですが、「恋」はどちらかというと行動的、「愛」はどちらかというと思想的だと思っています。
「恋」はもともと日本語では「こふ」という動詞でした。相手を求めるとき動作を示します。
一方、「愛」という日本語はもともと存在しませんでした。相手を思う気持ちのことを「愛」といいます。
実は「愛」という日本語はなかったんですね。ではどんなふうに「愛する」という気持ちを表現していたんでしょう。
『万葉集』にこんな短歌があります。
相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後(しりへ)に額(ぬか)づくごとし
思ってもくれない人を思うなんて、大寺の(拝んでもなんの効き目もない)餓鬼像を、(しかも)後ろから拝むようなものです。
これは、万葉の女流歌人、笠女郎が大伴家持に贈った歌です。彼女は20首以上の歌を家持に贈って自分の恋心を伝えようとしたのでした。
しかし、結果はこのざま。片思いのままでその恋は終わってしまうのです。
「相思はぬ」は「お互いに思っていない」ということです。つまり片思いってことで「相思はぬ人を思う」というのは「両思いではない人を恋し続ける」ということになります。
「餓鬼」は仏教で出てくることばです。仏教では「三悪道」といい、悪行を重ねた人間が死後に行く3つの下層世界を指すそうです。
その3つの下層世界は「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」です。その一つ「餓鬼」をモチーフにした仏像がお寺にあったということですね。
もちろん拝んでも全く役に立ちません。
したがって「大寺の餓鬼の後」は大きなお寺の餓鬼像の後ろ、「額づく」の「額」は文字通り「ひたい」で「額づく」で「ひたいを床につける=拝む」という意味になります。
つまり「大寺の餓鬼の後に額づく」はすなわち「大きなお寺においてある餓鬼像を後ろから拝む」ということです。
笠女郎が言いたかったのは「片思いっていうのは餓鬼像を後ろから拝むものだ」ってことなのです。
彼女にとって恋は最悪なものだったのかもしれませんね。
ところで、この「相思はぬ」の「思ふ」という動詞が『万葉集』ではたくさん出てきます。しかも恋愛の歌の中にです。
この時代、愛を表す言葉は「恋ふ」という動詞以外では「思ふ」が多く使われていました。
「愛している」という言葉がなかった代わりに「思ふ」で表現していたわけです。
それにしても笠女郎のような恋愛はつらいなぁ。というか、恋愛自体つらいものですよね。
おそらく恋愛感情ほど人を狂わせる感情はありませんよね。
だから私は恋愛するのがちょっと怖いなぁってところがあります。
ただ、私も1人の女性を思い続けたいなぁという気持ちもありますけれども・・・
あはは・・・