わが窓にとどく夕映は
村の十字路とそのほとりの
小さい石の祠の上に一際かがやく
そしてこのひとときを其処にむれる
幼い者らと
白いどくだみの花が
明るいひかりの中にある
首のとれたあの石像と殆ど同じ背丈の子らの群
けふもかれらの或る者は
地藏の足許に野の花をならべ
或る者は形ばかりに刻まれたその肩や手を
つついたり擦つたりして遊んでゐるのだ
めいめいの家族の目から放たれて
あそこに行はれる日日のかはいい祝祭
そしてわたしもまた
夕毎にやつと活計からのがれて
この窓べに文字をつづる
ねがはくはこのわが行ひも
あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ
仮令それが痛みからのものであつても
また悔いと実りのない憧れからの
たつたひとりのものであつたにしても
タイトルの「夕映」は夕焼けと同じと考えていいでしょう。
この詩は夕焼けに照らされた、とある村の風景から始まります。
その中で、幼い子たちがお地蔵さんの足元にお花を並べたり、あるいはお地蔵さんの肩や手をつついたりこすったりしてるんですね。
なんとも平和で、なんともきれいな風景ではありませんか!
目を閉じてそんな風景を想像してみたいですね。一度行ってみたくもなってしまいます。
伊東静雄は、子どもたちがああやって遊んでいる様子を「日日のかはいい祝祭」と言っています。
そして、詩は後半に突入します
後半は外の景色から、自分のことに視点が映ります。
伊藤は自分の日々の様子を
「夕毎にやつと活計からのがれて/この窓べに文字をつづる」
と言っています。
つまり、毎日夕方になると、日々の仕事や生活から逃れて1人詩を書いているということです。
そして自分の詩作について
「あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ」
と願望を込めて述べています。
伊藤は毎日窓辺で詩を書く行為と、子どもたちの遊んでいる様子とを重ねているのです。
そこにはどんな気持ちが込められているのでしょうか。
子どもたちは無邪気に純粋にお花を並べたり、お地蔵さんの肩をつついたりしています。自分の詩作はそれと同じでありたいなぁってことなんですよね。
なんとなく気持ちがわかる気がするなぁ。
私はこの「祝祭であれよ」という部分が、「夕映」の中で一番好きな部分です。
そして、願わくば、私がこうやってブログを書く行為も「小さい祝祭」であったらいいなぁなんて思っています。
私は、伊東静雄の詩がいくつか好きなんですが、今日はこの詩をご紹介しました。
たまには詩を読んで、想像するのもいいものですよ!
そして、心の中にきれいな風景を思い描いてみてください(^^)