たまには中原中也「朝の歌」のような気分になる(№283)

中原中也「朝の歌」。

天井に 朱きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍楽の憶ひ
  手にてなす なにごともなし。


小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
  諫めする なにものもなし。


樹脂の香に 朝は悩まし
  うしなひし さまざまのゆめ、
森並は 風に鳴るかな


ひろごりて たひらかの空、
  土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

 

私は彼の詩をよく理解しているわけではありません。ただ今朝の気分をブログに書こうとしたらなんとなくこの詩が浮かんできただけです。

 

第一聯、朝の光が戸の隙間から漏れてくる様子。詩人はなにもすることがありません。

 

第二聯、外の様子。小鳥の歌も聞こえない、空は「はなだ色」らしい。

 

詩人の倦怠の心を諌める人もそこにはいません。詩人はただのんびりというか、気怠くしています。

 

第三聯、朝は悩ましい・・・。そして詩人はそこで認識しました「失ったさまざまなゆめ」を。

 

第四聯、三聯の続き、土手づたいと空の境界線の間あたりに「うつくしきさまざまな夢」が消えてゆくといいたいのでしょうか。

 

全体を通して、「悩まし」、「倦んじてし」、「うしないしさまざまなゆめ」、「きえてゆくかな」ということばが散りばめられているところから、詩人のネガティブさを非常に感じます。

 

動くのも考えるのもかったるい状況でしょうか・・・。

 

そして、描いていた様々な夢も、その朝のけだるさの中で消えていくということなんでしょうか・・・。

 

 

昨夜お酒の飲み方が悪かったのか、今朝はひどい頭痛でした。

 

目が覚めて、最初に思ったのが「すべてを停止したい」ということでした。何もやる気がないし、希望もないし、とにかく目の前を真っ暗にしたいって感じです。

 

演劇でいうと幕を下ろしたままでいたいという感覚でしょうか。

 

映画でいうと永遠にエンドロールを流していたいというか・・・。

 

とにかくそんな感じです。

 

朝といえば、本来は「ラジオ体操の歌」のようでありたいものなんですけどね(笑)

新しい 朝が来た 希望の朝だ
喜びに 胸を開け 大空 あおげ

 

そんな朝、ブログを書こうかなと思ったら浮かんだのが、中原中也「朝の歌」だったわけです。

 

たまにはそんな日もあります。

 

だけど、人生そんなものだと思います。別にそういう朝が特別いいとか悪いとかではなく、ただそれは人生の一コマに過ぎないのです。

 

たとえどうしようもなく気分が悪い朝が訪れようと、

 

たとえどうしようもなく絶望に襲われようとも、

 

それは人生の一コマに過ぎません。

 

次の一コマは、またすぐに変わるし、変えられます。だから全く気にする必要はないなぁと思います。

 

ちなみに中原中也はこの詩ができた後、「詩的履歴書」で

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。

(※中村稔「名詩鑑賞中原中也」より引用)

 

と述べています。つまり中原中也自身は、この詩で詩人としてやっていけるという手応えを感じたということです。

 

この詩は中原中也の自信作だったわけですね。

 

 

それはさておき、本日は、とりあえずこんな朝だったということをご報告しました。本日も元気でがんばっていこうと思います!