祈るという行為は自分の中にある漠然としたものを言語化する行為だ 2022-01-07

先日、アベマTVのアベマプライムという番組をYoutubeで見ていた。

内容はあるテーマについて「あり」か「なし」か討論するというものである。

今回のテーマは「お歳暮」、「初詣」、「年賀状」の3点だった。

最近の若者にとっては不要なものばかりかもしれない。

 

で、それが「あり」か「なし」か、私にはどうでもいいことだったが、そこに参加していた田端信太郎さんのことば心に残った。

 


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テーマは「初詣」だ。

「初詣」はあり?と聞かれたところで、私は「好きにすれば?」と答えるだろう。

はっきり言ってどうでもいいことだ。

まあ、日本の文化を残すという観点でいえばあったほうがいいかもしれないと思う部分もある。

特に初詣にように神社やお寺に行く機会はもう少し増やしたほうがいいような気もしている。

 

が、まあ、それはともかく置いとこう。

田端さんの言ったことばのほうがはるかに重要だから。

 

田端さんいわく

ご利益というよりは、お参りするときに自分の心の中で「なんかこうでありたい」ということを言語化して唱えるわけじゃないですか。それってある種の漠然とした願望を言語化していると思ってて・・・(以下略)

とのこと。

 

確かに祈るという行為は、自分のなかにある漠然としたことばになっていないものを言語化する行為だ。

そして、自分の願望や欲望を言語化することで、自分の意思が明確になり、次の行動につながるものとなる。

 

よく、「自分の目標を紙に書き出してみよう」なんて言われていたが、紙に書き出すことで目標が言語化され明確になるわけだ。

 

どうやら言語化というのがキーワードのようだ。

 

最近、私は目標を掲げなくなったせいで、モチベーションが落ち気味だ。

なんとなく「こうしたい」より、はっきり「目標は○○だ」のほうが、行動する動機になるのだ。

 

そういうわけで、私はこれから言語化する機会を増やそうと思う。

目標や願望を定期的にことばにして、自分のやりたいことを明確にしていきたい。