万葉集の東歌「子持山若かへるでのもみつまで・・・」を思い出してしまった(令和元年8月23日)

映画好きのみっちーです。

 

最近、恋愛の映画を立て続けに観たら、ちょっと恋をしたい気分になってしまった。

 

この年齢になって「恋かよ」と笑われてしまうかもしれないが、気持ちだけ若い頃に帰ってしまったのは事実だ。

 

恥ずかしながら、私にも、まだ恋をしたい気分というのが残っているようだ・・・。

 

まあ、ともかくも、そんな気分になったわけだが、なぜか若い頃に愛読していた万葉集の恋の歌まで思い出してしまった。

 

今日は、ちょっと文学チックな話になってしまうが、お許し願いたい。

 

万葉集の恋の歌

 

万葉集は全部で20巻。さまざまな種類の和歌がある。

 

その第14巻には東歌(あずまうた)というのが収録されている。これは東国で詠まれたで和歌が集められたものだ。

 

ちなみに昔の東国は、いまの東北だけではない。むかしの都は奈良のあたりだったので、関西より東は東国という感覚だ。

 

元来、万葉集は「素朴」とか「雄大」とか文学史で習うものだが、この東歌に関してはかなり素朴な感じがする。

 

ずいぶん長く、万葉集の勉強をしていない私ではあるが、本日は東歌の一首をご紹介することにする。これはたしか大学一年生のときに教えてもらった和歌だったと思う。

(ということは何十年も前に習ったのだなぁ・・・)

 

子持山 若かへるでの もみつまで 寝もと我は思ふ 汝はあどか思ふ 

 

読み方はこうである。

こもちやま  わかかえるでの  もみつまで  ねもとわはもう  なはあどかもう

 

それぞれのことばの意味は次のとおり。

 

子持山・・・群馬県にある山といわれている。

 

若かへるで・・・紅葉していない楓(かえで)。楓がカエルの手みたいな形をしていることから「かへるで」といい、それが現在「かへで(かえで)」になった。

 

もみつ・・・紅葉する。もともと「もみじ」は動詞「もみつ(もみづ)」であった。この動詞「もみづ」の連用形「もみぢ」がそのまま名詞化して現在「もみじ」ということばになっている。

 

寝も・・・寝よう。

 

汝はあどか思う・・・おまえはどう思う?

 

まとめてみると、一首の意味は次のとおりだ。

子持山の、まだあおい楓が紅葉するまでの長い間に渡り、おれはおまえと共に寝ていたいと思うが、おまえはどう思う?

 

万葉集の時代においては、共寝というのが恋愛表現であった。今でいうと「おまえと一緒にいたい」という意味だと考えておけばよいと思う。

 

つまり、この歌は、あおい楓が赤くなるまでの長い年月、ずーっと一緒にいたい気持ちを歌ったものなのだ。 

 

現代の歌でも「一緒にいたい」という表現は多いが、それは昔も今も同じだ。街に出るとベタベタくっついているカップルも多い。

 

まあ、私だって若い頃は恋をして、彼女だっていたこともあった。

 

彼女に「一生大事にするね」とか言ってみたり、彼女からは「一生愛してる」とか言われちゃったりしたこともあった。

 

が、いまとなっては、その彼女も結婚してしまい、私は独身のまま・・・。

(ああ、むなしい・・・)

 

いまは、独りにすっかり慣れてしまったわけだが、たまに昔のことを思い出すとさみしくなる。あのとき、いまの独りの姿など到底想像できなかっただろうなぁ。

 

今後、再び彼女ができるかどうかは不明だが、幸い私を愛してくれる人が現れたときには、一緒に赤くなる前の楓を見て

 

「この楓が赤くなるまで、おまえと寝ていたいが、おまえはどう思う?」

 

と言ってみたい。

 

いや、変態だと思われるな・・・。やめておこう。

 

ただ、もう一度、「オレとずっと一緒にいようよ」なんてことを言ってみたいものだ。