
芥川龍之介といえば、「蜘蛛の糸」とか「羅生門」が有名かな?
それぞれが、魅力的なお話で、今読んでも、魅力あるお話ばかりです。
冒頭の画像は岩波文庫版『侏儒の言葉』の表紙ですが、ご存知の人も多いですよね。私は高校生の頃に読んだのですが、とてもインパクトがあって、今でもおぼえているフレーズがあります。
そもそも、『侏儒の言葉』とはどういう作品かというと、Wikipediaにはこのようにあります。
『侏儒の言葉』(しゅじゅのことば)は、芥川龍之介の箴言集・文学作品。題名の「侏儒」とは体の小さい人、また知識のない人の蔑称[1]。また俳優の異称でもある。
(「侏儒の言葉 - Wikipedia」より)
箴言というのは、教訓めいた短い言葉のことで、この作品は芥川がこの世の中について思った様々なことを、一言で表したものということができます。
例を2つほどあげます。
可能
我々はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。おそらくは神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったであろう。
経験
経験ばかりにたよるのは消化力を考えずに食物ばかりにたよるものである。同時に又経験を徒にしない能力ばかりにたよるのもやはり食物を考えずに消化力にたよるものである。
このように、タイトル一つ、それからそれについての自分の見解を述べています。上の2つを見ると、ちょっと考えさせられるものということがわかりますよね。
で、私が『侏儒の言葉』で一番好きな言葉がこれです。
或仕合せ者
彼は誰よりも単純だった。
「或仕合せ者」は「ある幸せ者」のことです。
そして、「ある幸せ者」は「誰よりも単純だ」というのです。一見「えー、なにそれ?」と思ってしまいますが、実は奥が深い。
私、実は思うんです。
人が幸せに感じているときって、何かに夢中になっているとき、熱中しているとき、没頭しているとき、それしか目に入らないとき・・・等々だと思うんですけど、そのときって、絶対に複雑なことは考えていません。
「超楽しいー!」
「超うれしー!」
「超おいしー!」
「超充実!」
あるいは、ことばにならないこともあります。
とにかく、幸せなときは、複雑なことは考えていません。楽しい理由も、うれしい理由も、おいしい理由も考えないし、なんでこんなに充実してるんだろうなんて考えていません。
ただただ、幸せなんです。
複雑に考えてしまうと、せっかくの幸せも幸せではなくなってしまうことがあります。
「この幸せは、誰かを犠牲にしてなりたっている幸せだ」
とか
「このおいしさの秘密は何かな?」
なんて、考えてしまっているときは、もう幸せとは言えない状態です。
だからこそ、「幸せ」な人とは「単純」な人って言えるのではないでしょうか。
それからは、幸せな状態になるには、複雑なことを考えないようにするべきなんだろうなぁと考えるようになりました。
芥川龍之介のこのことば、短いですけど奥が深いですよね!