立原道造「夏の弔い」は人の淋しさをさらに感じさせる詩だ

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立原道造に「夏の弔い」という詩があります。

 

逝いた私の時たちが 
私の心を金にした 傷つかぬやう傷は早く愎るやうにと 
昨日と明日との間には 
ふかい紺靑の溝がひかれて過ぎてゐる 
  
投げて捨てたのは 
涙のしみの目立つ小さい紙のきれはしだつた 
泡立つ白い波のなかに 或る夕べ 
何もがすべて消えてしまつた! 筋書どほりに 
  
それから 私は旅人になり いくつも過ぎた 
月の光にてらされた岬々の村々を 
暑い 涸いた野を 
  
おぼえてゐたら! 私はもう一度かへりたい 
どこか? あの場所へ  (あの記憶がある 
私が待ち それを しづかに諦めた――)

 

立原道造はきれいな詩をたくさん残しているのですが、読んでいると無性に淋しくなっていきます。どう考えてもこの詩はハッピーエンドじゃないし。

 

「逝いた私の時たちが/私の心を金にした」とありますが、その直後「傷つかぬやう・・・」となっている時点で、作者は傷ついていることがわかります。

 

過ぎ去っていった立原の時たちは、彼自身の心を傷つけていました。

 

 

第2連を見ても、最後に「何もがすべて消えてしまつた!筋書どほりに」にありますが、消えてしまうことが、本当に筋書き通りだったんでしょうか。

 

 

今までのよかった思いがすべて台無しになることがたまにあります。

 

せっかく知りあったのに、いつのまにか疎遠になってしまった人たち。今まで一緒につくって来た時はなんだったんでしょうね。

 

私には、すべてを消してしまいたい過去など存在しません。出会った人とは楽しい思い出をつくっていきたい。でも、世の中、そうはうまくいかないようです。

 

 

そして最後の連で、「おぼえてゐたら!私はもう一度かへりたい(中略)しづかに諦めた」とあります。

 

あの記憶があるあの場所へ、あるいはあの思い出の中へ帰りたい、

 

なのに諦めたという意味なのか。

 

所詮、なくなってしまった、過去の、あまい思い出の中になど帰れないのです。過ぎ去ってしまった過去へは。

 

 

立原道造の詩を読むと本当に淋しくなってきます。

 

やはり、大事な記憶、大事な思い出、大切な人、すべてとっておきたいですね。

 

思うに、人の心の大部分は淋しさでできていると思うんです。淋しいから1人でいたくないし、淋しい気持ちを表面に出したくないから何かで気を紛らわしているんじゃないかな。

 

淋しくなっちゃうから、楽しいものを探し

淋しくなっちゃうから、おいしいものを食べ

淋しくなっちゃうから、忙しくする

 

人はそんなふうに生きている・・・。

 

人は一人では生きていくことができない。

人は淋しさを埋めるために生きているのだから。