伊東静雄「夕映」のように「小さい祝祭」ができたらいいなぁ

高校生の頃に伊東静雄という詩人を知って好きになりました。

 

Wikipediaによると

長崎県立大村中学(現 長崎県立大村高等学校)から、旧制佐賀高等学校(現 佐賀大学)を経て京都帝国大学文学部国文科に学んだ。
卒業後は公立学校教員(公務員)となり大阪府立住吉中学校(現 大阪府立住吉高等学校)教諭となった。終戦後は大阪府立阿倍野高等学校に転勤。詩作活動に耽る傍ら、地方公務員の教員としても勤務するという「二足の草鞋」となり、生涯教職から離れなかった。

伊東静雄 - Wikipedia

とのこと。

 

伊東は大学卒業後、学校の先生と詩人という二足のわらじを履いていたのです。

 

そんな彼が書いた「夕映」というとても素敵な詩があります。

 

わが窓にとどく夕映は

村の十字路とそのほとりの

小さい石の祠の上に一際かがやく

そしてこのひとときを其処にむれる

幼い者らと

白いどくだみの花が

明るいひかりの中にある

首のとれたあの石像と殆ど同じ背丈の子らの群

けふもかれらの或る者は

地藏の足許に野の花をならべ

或る者は形ばかりに刻まれたその肩や手を

つついたり擦つたりして遊んでゐるのだ

めいめいの家族の目から放たれて

あそこに行はれる日日のかはいい祝祭

そしてわたしもまた

夕毎にやつと活計からのがれて

この窓べに文字をつづる

ねがはくはこのわが行ひも

あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ

仮令それが痛みからのものであつても

また悔いと実りのない憧れからの

たつたひとりのものであつたにしても

 

タイトルの「夕映」は夕焼けの光に照らされて輝いているという意味で、この詩は夕映の中にある村の風景から始まります。

 

そこで、幼い子たちがお地蔵さんの足元にお花を並べたり、お地蔵さんの肩や手をつついたりこすったりしてるんですね。

 

とても平和でのどかな風景が想像できます。

 

そんなところに行ってみたいですね。田舎のとある村、子どもたちがわいわい騒ぎながら遊んでいる、平和な村に。

 

さて、伊東静雄は、子どもたちがあのように遊んでいる様子を

日日のかはいい祝祭

と言っています。

 

ちなみに「祝祭」とは文字通り「お祝い」と「お祭り」のことですが、子どもたちの遊ぶ様子を、喩えて言っているのでしょう。

 

 

そして、詩は後半へ。

後半は外の景色から、自分のことに視点が移ります。

 

伊東は自分の日々の様子を

夕毎にやつと活計からのがれて

この窓べに文字をつづる

と述べています。

 

「活計」とは生活していくこと。つまり、仕事をすることや生活していくことをさします。

 

つまり、毎日夕方になると、日々の仕事や生活から逃れて、一人静かに詩を書いているのです。

 

そして自分の詩作について

あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ

と願望を込め、

 

毎日窓辺で詩を書く自分の行為と、子どもたちの遊んでいる様子とを重ねているのです。

 

それはどんな気持ちでしょう。

 

子どもたちは無邪気にお花を並べたり、お地蔵さんの肩をつついたりして遊んでいます。きっと、自分がやっている詩作もそれと同じでありたいなぁってことなんですよね。

 

毎日毎日、お金を生活のために仕事をしているけど、本当にやりたいことはそれではないというのも伝わってきます。

 

本当にやりたいことは、伊東にとっては詩を書くことなんでしょうね。

 

私はこの「祝祭であれよ」という部分が、「夕映」の中で一番好きな部分です。

 

 

私にとっても、こうやってブログを書くことがであったらいいなぁなんて思っています。

 

このブログで素敵な詩や短歌を紹介していきたいのですが、夕映えの中で楽しんでいる子どものように、楽しんでブログを書いていけたらいいなぁなんて想像しちゃいました。

 

みなさんにも、自分の中に「小さい祝祭」みたいなものはあるんですかね?